3Dバイオプリンターが失明患者を救う――人工角膜開発の最前線
もし急に目が見えなくなったら
もし明日、急に目が見えなくなったら。そんな想像をしたことがあるだろうか。
当然、恐怖を感じるだろう。空も、海も、大地も、木々の緑も、そして、大事な人たちの顔も、もう二度と見れないだなんて、想像しただけで苦しくなってしまう。
現在、日本では視覚障害者が約31万人いると言われている。原因は様々だが、そのうちの約2万人は角膜移植によって視力の回復が可能だとされている。
角膜とは私たちが眼球に光を取り入れる際の入り口だ。私たちがはっきりと世界を見渡すことができるのはこの角膜のおかげであり、角膜がなければピントを合わせることもできず、あるいは光を取り込むこともできない。
それゆえ、角膜に何らかの原因で障害を負ってしまうと、最悪の場合は失明してしまう危険がある。それほどに重要な器官なのに、人体は角膜内皮細胞を自分で修復することはできない。傷つき、障害を負った角膜を治療するには、健康な角膜と交換する「角膜移植」が必要なのだ。
移植にあたってはまず角膜を提供してくれるドナーが必要である。しかし、ドナーは現状で不足している。もし健康な角膜さえあれば視力を回復できる人たちが、ただ順番待ちをしている状態が続いているのだ。さらには免疫学的な拒絶反応が出てしまう場合もある。移植技術はあっても、いまだ視力を回復できていない患者が大勢いるのだ。
そのような状況を克服する技術が、現在、3Dプリンターによって開発されているらしい。そこで、今回は3Dプリンターによる人工角膜開発のここ2年の状況を、ざっと概観してみたい。本記事を要約すると、主に以下の3点になる。
①2020年~2021年にかけて人工角膜の研究と開発が急速に進んでいる。
②世界各国でそれぞれ研究が進められており、イスラエルではすでに人工角膜の移植手術に成功している。
③現在、最も期待されているのはバイオインクと3Dバイオプリンターを用いた角膜の生成。出力にかかる時間は10分ほど。
それでは見ていこう。
3Dプリント技術を用いた人工角膜
それは2020年7月のことだった。
トルコのイスタンブールにある国立マルマラ大学で、3Dプリント技術を用いて移植に適した人工角膜の生成に成功したという衝撃的なニュースが飛び込んできたのだ。
発表によると、マルマラ大学の研究チームが成功させたのは、ドナーからの移植に頼らずに角膜を置換するための人工角膜の生成らしい。これがドナー待ちが続いてる角膜移植希望者に光をもたらすとして、眼科医学界に波紋を呼んでいたのだ。
開発された人工角膜は、生体適合性があり弾力や透明性に優れた複合材料から製造されるとのことだった。研究チームは3DCADソフトウェア「SolidWorks」を使用して設計した3Dデータから作成したアルミ型を用いて、FFF方式の3Dプリント技術を併用し、この人工角膜のサンプルを作製したそうだ。果たして人間の目にも使うことができるのか。テストを行ってみたところ、臨床でも使用可能であることが確認されたという。
(画像引用:マルマラ大学)
(画像引用:マルマラ大学)
これは画期的な開発だ。この技術があれば、もうドナー待ちに患者が耐え続ける必要がなくなる。さらに研究を続けていくことで早期に実際の現場にも導入したいと息巻く研究チームだったが、実は人工角膜の研究を進めていたのはマルマラ大学だけではなかった。
ドナーを必要としない人工角膜の移植手術
次のニュースが届いたのは2021年1月だった。
イスラエルの新興企業・CorNeatがドナーを必要としない人工角膜の移植手術に成功したと発表したのだ。人工角膜の開発に成功しただけではなく、すでにその移植手術も無事終えているとのことで、大いに話題となった。
手術を受けた男性は10年前より角膜を損傷し、完全に失明状態だったらしい。しかし、術後には視力が回復、間もなく文字を読めるまでになったという。
この際に使われた人工角膜はCorNeat社が開発した「KPro」だ。このKProは生物模倣素材から構成されており、移植された部位の細胞増殖を刺激して術後数週間以内に体組織と完全に融合するため、術後の回復も極めて早いと言われている。
CorNeat社が開発した「KPro」
すでに10人の患者への試験的な移植が承認されているといい、あとは全面的な導入が待たれるばかりとまでなった。すると、今後はKProが人工角膜のスタンダードとなっていくのだろうか。そう思われた数ヶ月後、またニュースが届いた。
バイオインクから10分で角膜をプリント
2021年5月、今度はニューカッスル大学のチェ・コノン教授の研究チームが角膜を作り出すための溶液を開発、3Dバイオプリンターによって人工角膜を作り出すことに成功したことを発表した。
この研究チームの人工角膜は健康なドナーから抽出した角膜の幹細胞にコラーゲンなどを化合することで生成したバイオインクから作られる。これはKProで使われている生物模倣素材ではなく、ズバリそのまま生体細胞だ。
写真を見ても分かるように、見た目にもかなり自然な作りだ。驚くべきは、このバイオインクさえ用いれば、安価な3Dバイオプリンターでも10分以内で角膜が生成できるということ。
すでに生成された人工角膜内で幹細胞が持続的に生き続けることも確認されており、さらに、3Dプリンターで毎回生成するため、大きさや形状も変化させることが可能であるとのことだ。
現在、最も注目されている技術だが、研究チームによれば、今後様々な検査を受ける必要があり、医療現場への実装には数年がかかるとのこと。とはいえ、着実に導入へと向かっていくことは間違いない。果たして、眼科医療の世界が大きく躍進しつつあるのだ。
3Dプリント技術が眼科医療を更新する
このように、2020年から2021年にかけて、人工角膜の研究は一挙に進展している。最近では目の中の水晶体を幹細胞で再生して移植、視力を回復することができたというニュースもあった。
失明は大きな悲しみを伴う。しかし、全てとは言えないまでも、技術の進歩と共に徐々に克服可能な障害になりつつある。
私たちが当たり前のように毎朝眺めている部屋の風景のかけがえなさをあらためて認識すると共に、3Dプリント技術によって眼科医療がますます発展していってくれることを、心から願う。