ステータスシンボルとしての「腕時計」

ある人物の地位や富を示すステータスシンボルといえば、車、服、家などがまず思いつくかもしれない。しかし、数あるステータスシンボルの中でも、その歴史の長さ、物語の深さでいえば、腕時計に勝るものはないだろう。

 

スイスの老舗時計ブランドであるヴァシュロン・コンスタンタンの伝統的なモデル「パトリモニー・トラディショナル・クロノグラフ」。価格は約500万円。

 

腕時計がステータスシンボルとして優れていることにはいくつか理由がある。たとえば、腕時計が常に身につける「身近」で「個人的」な装飾品であるということ、その他の高級品よりも価格的に入手しやすく(とはいえ家一軒分くらいの価値を持つ時計もあるが)多くの人に開かれた贅沢であるということ、そして車や服というものがモデルチェンジやモードチェンジによって数年ごとに流行が変化していくのに対し、時計のデザインは普遍的で美的に経年耐久性があること、などが挙げられる。

 

かつてフランスやイギリスの王侯貴族を魅了したとされているジャケ・ドローの「グラン・セコンド」。懐中時計からインスピレーションを得て製作されたモデル。価格は約220万円。

 

実際、ロレックスやオメガなど、高級腕時計ブランドの人気モデルは数十年にわたって変化がない。もちろん、新機種、新モデルなども常に登場はしているものの、エクスプローラーやシーマスターなど、誰もが耳にしたことあるような定番モデルは、今日においても変わらずに高い存在感を放っている。

 

もはや高級腕時計の定番となっているオメガの「シーマスター」。価格は40万円台から。

 

近年はiphoneの普及によって若年層の腕時計離れが進んでいたが、裏を返せば、これは腕時計が「時間を知るため」という機能性に還元されなくなったとも言えるだろう。ステータスシンボルとしての腕時計は、今日においてより純粋性を高めているとさえ言えるかもしれない。

 

腕時計界の至宝「トゥールビヨン」とは?

さて、そうした腕時計の世界において、特別な存在がある。それは「世界三大複雑機構」と呼ばれる、技術レベルの高い限られたメーカーのみが製造できる、希少かつ複雑なメカニズムを有する時計である。

もちろん、この機構を持つ腕時計は抜群に高額だ。それらの時計にはたとえばロレックスのデイトジャストのような一見した派手さはない。言ってしまえば通向けではあるのだが、それだけに「分かる人には分かる」といういぶし銀の魅力を称えているのだ。つまり、それを腕に巻いているということは、その者のステータスを示すのみならず、「良いものを見極める」審美眼や、「表層よりも本質を重んじる」文化的教養の高さを示すことになるというわけだ。

この「世界三大複雑機構」がどのようなものかと言うと、長期にわたりカレンダー調整を不要とする「永久カレンダー」、ゴング音が時間を知らせる「ミニッツリピーター」、そして各パーツが受ける重力を均一化することにより安定した精度を維持する「トゥールビヨン」の三つからなる。

中でも高額で、人気が高いのは「トゥールビヨン」だろう。その神がかって複雑な構造を再現できる時計師は、なんと世界に10人程度しかいないと言われている。発明したのは天才時計技師ブレゲ。トゥールビヨンの発明によってブレゲは時計の歴史を200年推し進めたとまで言われており、実際、ブレゲのトゥールビヨンを現在買うためには最低でも車一台購入できるだけの額を用意しなければいけない。まさに至高のロマンと言うべき、腕時計界の「宝」である。

 

ブレゲの2019年の作品「クラシック トゥールビヨン エクストラフラット スケルトン 5395」。価格は約2500万円。

 

ただし現在、単に機能ということだけを見れば、トゥールビヨンにどれほどの特権性があるかは微妙だ。実際に1969年には、極めて精度が高く、なおかつ安価なクォーツが登場しており、それに伴ってトゥールビヨンは衰退してしまっている。しかし、そうであればこそ、そこに込められている技術、価値、希少性は、逆説的に輝きを増すと言うものだ。あるいは、機能性において特権を持っていない今日だからこそ、トゥールビヨンを腕に巻くということが、その者の「余裕」を表し、その高い「ステータス」を指し示すことになるとも言える。

 

モンブラン社の「ヘリテージ クロノメトリー トゥールビヨン 」。価格は約240万円。

 

是非とも筆者もこのトゥールビヨンを腕に巻いてみたい…ところではあるのだが、いかんせんお値段が高い。並みの収入では正直、手を出せるレベルではないだろう。しかし現在では、このトゥールビヨンを一般的な収入の人でも手にすることができるチャンスがあると言う。その鍵となっているのは、ここでもやはり3Dプリンターなのだ。

 

ほとんど全ての部品が3Dプリント可能な3Dトゥールビヨン

実を言うと、ここまで説明してきた時計界の至宝である「トゥールビヨン」、現在では3Dプリンターによる再現が試みられいるのである。実際、2016年には3Dデータを無料公開している3Dプリントコミュニティ「Thingiverse」にて、トゥールビヨンの3Dプリントデータが公開されて大きく話題になった。

先にも書いたように、トゥールビヨンの機構は極めて複雑で、世界でもそれを製造できる時計師は10人ほどしかいないと言われている。そんな複雑極まりないトゥールビヨンを、デスクトップタイプのコンシューマー3Dプリンターで造形可能な3Dプリント用データとして、かつ組立方法を解説した動画と合わせて公開した人物がいた。その人物はエンジニアであり「Thingiverse」のユーザーであるクリストフ・ライマー氏。2016年に公開された実際のライマー氏の動画はこちらである。

 

 

この3Dトゥールビヨンは、一部を除くほとんどの部品が3Dプリンターで出力可能で、小さなワッシャーなど精度の必要な部品についても、3Dプリント可能なサイズにまとめられていると言う。ライマー氏は、この3Dプリント・トゥールビヨンをAutodesk360を使って製作し、さらに完成した3Dデータを誰もが自由に出力し、利用できるようにと、「Thingiverse」で公開したのだ。

果たして、その精度のほどは…と言うと、実際に出力し、組み立ててみた人たちのレビューを見ると、時間が正確ではなかったり、駆動時間が短かったりと、実用にはやや難ありのようだ。しかし、複雑さ、精密さを象徴するようなトゥールビヨン構造を3Dプリンターひとつで近似的に再現したという事実が示しているのは、3Dプリンターが今後、腕時計の世界を大きく変えていく可能性だろう。

あるいは、それは腕時計のデザインにおいても同様だ。たとえばアンティーク風の腕時計を製造しているオランダの新興の腕時計メーカー「ホルセンリックスウォッチズ」は、腕時計の本体部分を金属3Dプリンターによって製造し、独創的なデザインを提案。伝統的な機械式時計の業界に一石を投じている。

 

Holthinrichs Watches

 

また150年以上の歴史を持つ老舗時計メーカーであるPANERAIなども、最近の路線においては、フォルムの製造に最新の3Dプリンターを積極的に採用し、生産性の向上を目指していると言う。おそらくは今後、様々なブランドが3Dプリント技術を時計製造の現場に導入していくことは間違いない。

 

PANERAIの「ロ シェンツィアート ルミノール 1950 トゥールビヨン GMT チタニオ – 47mm」。チタンケースを3Dプリンターで造形した本作ではPANERAI独自の特殊トゥールビヨン構造も備えている。価格は1572万円。

 

もちろん、そうとはいえ歴史ある時計職人たちの技術が用無しになるわけではないだろう。3Dプリンターは職人から仕事を奪うのではなく、職人のクリエイティビティを刺激し、今までになかった新しい腕時計づくりをエンパワーするツールになりうるはずだ。あるいは、真に実用可能な3Dプリンター製のトゥールビオンが登場し、それぞれが自身のカスタマイズによって出力使用する日だってそう遠くはないかもしれない。その時、ステータスの意味も単に所得の多寡を指し示すものから、ものつくりに対する感度の高さを指し示すものへと変わるだろう。

「どんな腕時計をつけるか」だけではなく「どんな腕時計を出力するか」がロマンとなるような時代の到来、これこそが「ものつくり革命」と言うものではないだろうか。ちなみに筆者は高級腕時計もさることながら、個人的にはカシオのG-SHOCKを愛していたりもする。

 

G-SHOCKと日本のアパレルブランドN.HOOLYWOODのコラボによる「DW-5600NH」。税別2万円。

 

(文/SK本舗)